旗掛石と徳川家康

浅間神社前にある巨石です。もともとは神が拠る磐座として崇められていたと考えられます。江戸時代の地誌『駿河志料』には「天正年中、原川新三郎が家に、大神君人御ありしとき、御馬を繋ぎし松、御旗を建、御鞍を置きし処なり」とあります。徳川家康の逸話が加わり、地元では「旗掛石」あるいは「鞍掛石」と呼ばれるようになりました。


天正10年(1582)ころ、徳川家康は、武田軍のいる田中城を含め、石脇や当目周辺などを攻めました。このとき石脇の原川新三郎の家を本陣とし、その門前に並んだ二つの大きな石の神に勝利のお祈りをしました。


その後天下統一した徳川家康は、将軍職をゆずって駿府に住みました。そして、しばしば原川家をおとずれました。そのとき、 原川家の門前の大きな石に旗を立てて、そのカをしめしたといいます。このため、この石を「旗掛石」と呼ぶようになったとい うことです。

淺間神社

旗掛石の脇の小山に祀られた神社です。この神社は原川家がふるさとの遠州原川村(今の掛川市)から勧請したもので、もともとは屋敷神でした。これを石脇の人たちが村の守り神として一緒にお祀りしたいということになり、地域の神社になったといういきさつがあります。


原川新三郎は徳川家康の当目合戦(天正9年、1581)のころから家康に従って親交を深めたとされ、先の旗掛石の伝説が語り伝 えられています。江戸時代には屋敷の一方に堀の跡があり、旗掛石は原川家の門前にあったとされるので、大きな敷地を持っていたと考えられます。浅間神社も原川家の屋敷地の一角だったのでしょう。


石脇の浅間神社の祭神は木花咲耶姫命、 品陀和気命(応神天皇)、天照大御神です。 浅間神社は全国で約1300社があり、一般 的には富士山を神格化してお祀りしています。木花咲耶姫命は日本神話の中で富士山の神様である浅間神と結びついて、多くの浅間神社で祭神となっています。このほか、浅間神社には境内社として津島神社と八幡神社も祀られています。