宝積寺について

山号は石脇山、市内唯一の臨済宗寺院で、本尊は聖観世音菩薩です。かつては天台宗花沢法華寺16坊の一つで、元小浜にあったと伝わります。しかし、高波の被害を受け、永享10年(1438)に臨済宗に改宗して再興されました。昭和41年(1966)に東名高速道路の建設に伴って現在の地に移りました。 境内にある西国三十三ヶ所観世音菩薩石仏は享和元年(1801)に安置されたものです。木喰五行上人作の地蔵菩薩立像も安置されています。


木喰五行上人は、享保3年(1718)、甲斐国古関村丸畑(山梨県南巨摩郡身延町古関字丸畑)に名主の次男として生まれました。享保16年(1731)、14才の時、家出さながらに江戸へ向かい、江戸や関東の各地を放浪したといいます。22才になった時、真言宗の僧と出会い、出家することにしました。20年以上修行を続けて45才を迎えた時、常陸国(茨城県水戸市)の羅漢寺というお寺で「木喰戒」を受けました。木喰戒とは穀物や火を通したものを食べないなどの厳しい戒律(おきて)のことです。その後、10年以上の修行を経たお才の時、日本中を旅して修行する廻国修行に出発します。当時の寿命からするとかなり高齢になってから新しい修行を始めたことになります。


木喰上人は、北は北海道から南は九州まで諸国をまわって、荒れたお寺を復興するなど修行を続けました。61才のころから仏像を彫り始めたとされ、千体の仏像を作って全国に安置することを発願したのは80才の時といいます。焼津の木喰仏にも「日本千タイノ内なり」と書かれており、千体仏造像の願を読み 取ることができます。90歳の時に作った自刻像には「二千体の内」との墨書があり、干体仏造像を成し遂げ、さらに修行を続けようとしたことがうかがわれます。


木喰上人の手によって彫り出された仏像のうち、特に晩年のものは、どれも笑みを浮かべたような表情をしていて「ほほえみ仏」「微笑仏」ともいわれ、「円空仏」と並び称される江戸時代の代表的な仏像となっています。 焼津・藤枝・岡部には寛政12年(1800)、83才のときに滞在しました。焼津では7月21日に大日堂の吉祥天像、同23日に大日堂の不動明王像、8月4日に宝積寺の地蔵菩薩像を彫り上げ奉納しています。勢岩寺の弘法大師像の製作年代は不明ですが、同じ時期に作られたものと考えられます。どれも晩年の作風をよく伝え、温かみのある表情を浮かべています。


木喰上人は多くの和歌を残しており、歌人 としても知られます。「まるまると まるめまるめよわが心 まん丸丸く 丸くまん丸」 は上人の和歌で、木喰仏の姿にも通じているようです。 木喰上人は最後まで廻国の修行を続け、93才で亡くなったとされますが、その場所は今も分かっていません。