鳴沢のお不動さん

鳴沢不動尊は江戸時代の地誌『駿河志料』 「鳴沢不動堂」の項に「沢の辺にあり、境内 に楠古木あり、滝の沢を云処より清泉出づ、 岩石に激し声をなす、 村名是に依れるならん、下流花沢川と合す」とありますが、具体的な信仰については他の書物にも触れられていません。地元には次のようなお話が伝えられています。


しかし、永禄13年(1570)、武田信玄の駿河侵攻に際し兵火に遭い、堂宇はことごとく焼失してしまいました。そのため、建物 はもちろん文書の類もすべてが失われ、元の伽藍があった位置を含めて、江戸時代以前の法華寺やその周辺の集落などの様子を知る手がかりはなくなってしまいました。


遠い昔のことです。旅の老人が、成沢村の名主の門前に立ち、「私はお不動様を東国の寺に納めるために長い旅をしてきましたが、急に旅の疲れがでてしまいました。どうか一夜の宿をお願いします」と言いました。名主さんは気の毒に思い、この老人を泊めることにしました。


こうしてこの老人は名主の家にとどまることになりましたが、病気はどんどん悪くなっていきました。ある日、老人は名主を呼ぶと「私の体はよくなりそうにありません。私の持ってきたこのお不動様は、きっと村内の安全を末永く約束してくれるでしょう」と言い残して、死んでしまいました。名主は村人たちと相談し、この老人をとむらい、村の安全を祈るために、このお不動さんをお祀りすることにしました。 そしてこのお不動さんはしだいに人々の信仰を集め、いつしか鳴沢(成沢)のお不動さんと呼ばれるようになりました。


ところでこのお不動さんには、願い事のお礼に左鎌をおさめる風習があります。一説には、左ききの人がこれを直すためにおさめたとも伝えられています。また、地元の伝承では、遠い昔、ヤマトタケルノミコトが東征の折に、左利きの尊が自ら鎌で草を薙ぎながら日本坂を越えたことに由来するともいわれ、それにちなんで何か願い事がある時に左鎌を奉納するとも伝えられています。