林叟院と長谷川正宣夫妻の墓碑

林叟院は高草山南麓の清閑な谷地にあります。山号は高草山、本尊は如意輪観世音菩薩で、志太地区の曹洞宗の拠点寺院として信仰を集める名刹です。焼津市指定文化財の鐘楼や経蔵を含む諸伽藍がたたずむ境内には、500年を超える歴史が刻まれています。


林叟院はもともと林雙院と称され、文明3年(1471)に小川の会下之島に建てられました。開基(寺院を建てるために支援などをした人)は、小川城主長谷川次郎左衛門正宣です。今でも林叟院では正宣を大切にお祀りし、正宣の子孫が建てた江戸時代のお墓も境内に残っています。正宣は坂本の地頭、加納義久の次男と伝わり、小川城主長谷川長重の娘婿になったといわれます。今の場所に林叟院を移したのには、こうした坂本地区との地縁があったためとも考えられていますが、明応の地震に関係した不思議な伝承も語り継がれています。


なお、小川城に今川氏親がかくまわれていた時、氏親を教育したのは林叟院を創建した賢仲緊哲和尚といわれています。腎仲師は名僧として名高く、多くの僧が教えを乞い、林叟院からは高僧が何人も育ち、江戸時代には260ヶ寺を超える末寺を数えるに至りました。今なお、林間院は焼津市内でもたいへん歴史のある名刹として、多くの信仰を集めています。

明応の津波と林叟院

明応の津波と林叟院 今から500年ほど前のお話です。今は海になってしまいましたが、小川港のずっと沖に林雙院というお寺がありました。このお寺は法永長者と呼ばれた小川城主の長谷川正宣が、腎仲というえらいお坊さんをまねいて建てたものです。


あるとき、お寺に不思議なお坊さんが訪れ、賢仲に、「ここは危ない。お寺を移す方がよいでしょう。その場所を教えましょう」と言って、賢仲を連れて、坂本の山のふもとまで行き、「この地こそ寺として適地である」と告げました。賢仲が振り返るとそこにお坊さんの姿はなく、大きな石がひとつ残るだけでした。


賢仲は、寺に帰るとさっそく、これを長谷川正宣に伝え、急いでお寺を移すことにして、明応6年(1497) に、今の場所に林叟院を建てました。お坊さんが立っていたという石は、今でも林聖院に登る石段の左側の大きな杉の木の根元にあり、山神石と呼ばれ、大事にされています。 林叟院が今の場所に移った次の年の8月には大地震(明応地震)が起こり、津波によって、元林叟院があったあたりは海に沈んでしまいました。 大正時代には、舟の上から海の中をのぞくと、林叟院の石垣や、建物の跡がよく見えたそうです。