若宮八幡宮

江戸時代の地誌『駿河記』や旧祢宜家の山川氏古記録によると、若宮八幡宮は井伊直考の産土神とされており、寛永6年(1629)、第二代彦根藩主となっていた直孝が自分の生まれ故郷の地にある中里の若宮八幡宮を再建したといわれています。焼津市指定文化財の「若宮八幡宮の棟札」にも直孝による再建が記されています。祭神とは品陀和気命、御神体は馬上の木像と伝わります。


また、焼津市指定文化財に若宮八幡宮の棟札というものがあります。高さ152.2m、厚さ3.6m、重さ約5を測る、桧材の棟札です。表面に黒い漆を塗り、文字を彫って、その上から白色の顏料をかけて文字を著しています。若宮八幡宮が井伊直孝の氏神であることが刻まれており、直孝と焼津のつながりを示す貴重な資料です。 文字は江戸時代前期に活躍した 松花堂昭乗が書きました。昭乗は男山八幡 (石清水八幡宮)の社僧で、書家としては「寛 永の三筆」と称えられ、また画家としても優れていました

若宮八幡宮の石橋

天保6年(1835)6月に関方村の石工五左工門により架設された石橋です。長さ152cm(親柱部分含む)、幅159cm(高欄部分含む)。若宮八幡宮の外側の鳥居から現神社敷地内の鳥居、拝殿、本殿に真っすぐのびる参道の途中にあり、敷地境の東側水路の上に掛けられています。


構造的には通路部分、高欄部分、親柱部分からなり、すべて石製です。通路部分の長さは122cm、幅は129mで上部がアーチ型の4枚の板石からなります。その両横に長さ122cm、幅5mm、厚み5cmのアーチ型の一枚石の高欄がついています。各高欄の両端に、15cm角で高さ約3mの石製の親柱が4本立っています。親柱の側面に、架設年や関わった人の氏名が彫り込まれています。


架設年代がはっきりした江戸時代の石橋が、現在も現役で使用されていることはたいへん貴重な例です。